2010年9月25日土曜日

月見て落とす七胴

神林長平の初長編「七胴落とし」は、大人になると失われる感応力を持つ子供たちが一時のモラトリアムの中で苦しみあがく世界の物語。
マリンガやろうぜ!



津田です。



この作品にはのちの神林作品に連なる事象も結構あって、大人には見えない子供の脳のイメージとか<あなたのイドを解放しなさい>とか主人公の名前の由来元である日本刀と共に語られる小狐丸とか姉のような<月子>の存在とか言葉は寄生虫のようなものという概念とかぬいぐるみの猫ボドワンことボールドウィンとかあと特殊少年課の刑事、そして大人の世界は死人の世界だという主人公「三日月」のアイデンティティー、
とかね。
そうそう、硬質で現実的な力を持つメカニックな存在としては表題にもなっている妖刀「七胴落とし」が。
大人になること、変化への不安感がうっとうしくもセンシティブに描かれた青春小説の名作であるとともに世代間コミュニケーション不能状態のみならず同世代間さらには自分自身とのコミュニケーション不信という神林作品におけるひとつのテーマがすでに如実にあらわされていることがわかるだろう。
ラストの感応力が失われた主人公の悲痛でこっけいな叫びは痛々しくも苦々しい。

この周りの世界は全部死んでいる(主人公にはそう思える)という状態は、ゾンビものにおいては生きながら喰われちゃったり侵食されることの恐怖に似ているかもしれない(最近では学園黙示録とか屍鬼とか)。
ちょっと洒落た推理コメディかと思いきや実は舞台は死者の国に到るまでの辺獄であった「熱海の捜査官」の永遠の森学園とかも、そういった心理描写や説明の一切ない神林作品を見ているようでもあったか。

しかし強力な力を秘めた妖刀、長ずると失われる力に恐れその延長に固執する人物とくれば最近では・・・
少佐!
坂本少佐じゃないか!
(戦闘妖精少女スーパーシルフのパンツに直筆「雪風」マークとサインを書いても恥ずかしくない神林長平つながり)

無駄知識:ファーンIIはペリーヌとかセルティとかキバーラと同じ声優。

2010年9月24日金曜日

非実在的なマッコイ

TVタイトル"The Man Trap"の邦題が「惑星M113の吸血獣」ってのも大概だが、ノベライズ版はなぜか独自のタイトル"The Unreal McCoy"になっており訳が「実体のないマッコイ」、当時どうしてこんな題名なのか悩んだものでした。



津田です。



結果から言うと"real McCoy"って一種の成句があるらしく、<米国のボクサーNorman ShelbyのリングネームKid McCoyを他の同じ名前のボクサーと区別するためにthe real McCoyと呼んだことにちなむといわれる>らしい。
つまり小説版タイトルはこれをもじったものであり単に「偽者のマッコイ」でいいんじゃん。
"実体のない"とかなにか深遠で哲学的な意味でもあるかと思ってしまってたが、解決してすっきり。
このタイトルが示すようにまたかと思われるかもしれないがシェイプシフターの異星怪物がこの話のネタになっている。
主にマッコイの昔の恋人ナンシイに化けてるんだが、マッコイを昔の愛称でプラムさんと呼ぶ。
ぷぷぷプラム?恋人を食べ物系の愛称で呼び合う文化なんだろなデカルチャー。

しかしこの巻(STAR TREK 1)はなんか訳に違和感があると思ったらおなじみ斉藤伯好さんじゃなくて中上守さんだった。
翻訳モノは訳者も重要だよな。
この話自体はミステリ仕立てで進行してゆき、相手の望む姿になれる種族の最後の生き残りを地球の絶滅種になぞらえて描かれる箇所もあったり、SF的要素にも抜かりはない。
吸血じゃなくて塩(まぁ栄養塩類、塩基ってことだろう)を生きている生物から吸引する生物で、ヴァルカン人のソレはお気に召さなかったらしい。スポックのヴァルカン特性超便利。
結局、一行はこの怪物を絶滅させちゃうんだけどね。

この種族が滅びていったのは塩の供給が断たれたことだけが理由ではないだろうとカークは推測する。
あまり利口な種族ではなく、せっかく自分の持っている強みを十二分に発揮できなかったんじゃないかと。
それを受けてスポックも自分たちがそうなる可能性も示唆。
マッコイのメロドラマ的な苦悩を描きつつも説教臭いところもあって、実にスタートレックらしいよなぁ。

我々も(サラリー)を断たれると死を免れないですからな。

2010年9月23日木曜日

ジョジョの奇妙なヒーロー

ジョセフ・カーター・ジョーンズは“ジョーイ”と呼ばれてますんで。
父は玄田哲章(声が)。



津田です。



なんだかんだと最後まで見てしまいましたが「HEROMAN」、優秀なアニメーション作品でしたよ。
「スパイダーマン」「X-メン」「ハルク」など数多くのアメリカン・コミックス原作を手掛けるその道の第一人者として著名なスタン・リーは、御年87歳のHEROMAN原作者で当作品にもカメオ出演してるお茶目でダンディなおじいさん。
そのストレートなタイトルからもわかるようにもう王道と呼ぶに相応しい正統派ヒーローアクションでした。
まったく目新しさは感じられないんですが逆にそこが新鮮で、物語の筋や人物造形に粗さや無理がなく好感が持てるアニメでした。
全然違うんだけどなぜか巨神ゴーグを思い出すことが多かったよ。
ロボット型玩具に雷が直撃してヒーロー誕生というそもそもの理由付けは、外敵から身を守るための地球意志(かもしれない)というおおらかさはアメコミならではってことで許されるんじゃないかな。
これが日本の例えばガオガイガーあたりならかつて滅ぼされた星の高度文明の遺産が的な流れもありうるんだろうがいやまてそれはスーパーマンですでに似たような感じだったよな、とか。
ほんと子供に見せたいアニメとしては近年まれに見る名作だったんじゃないかな。

しかしこう玩具や立体物の商品展開は全くといっていいほど聞かないけどリボルテックあたりで出てもおかしくなさそう。
あーあと体型からぬいぐるみが実に映えそうなのでコスプレジョーイ君などが持てばサイ君もヒューズさんもキュン死にであろう、間違いない。
ヒーローマンはしゃべらないんだけど、うなり声とか玄田じゃなかったのかな。ちょっと気になる。

物語自体はしっかり完結しているものの、2期があってもおかしくはないような最終回ではありました。
おおむね好評なんだけど実はそんなに好みじゃないし突出して熱狂できるものでもなかったのは事実なんだが、物語作りのお手本のような丁寧なつくりだったので高く評価したい。

ヒーローマーン、エンゲージ!

2010年9月22日水曜日

恋はエレベーターに乗って

NHKドラマ10「10年先も君に恋して」は順調に面白いよ。



上舞です。



8月末から放映してるんだけど21日の第4話で、宇宙エレベーター競技会のシーンが登場。
宇宙エレベーターの仕組みと競技会については番組HP内にわかりやすい説明があるのでリンク。
http://www.nhk.or.jp/drama/10nen/html_10nen_sp_tr04.html
ストーリーは一昔前の恋愛モノといいますかそう少女漫画チック。
少女漫画は良質なSF作品の隠れ蓑としても機能してきたという側面もあるので、こういう風に広報していくことはある意味正解なのかもしれないですよ。
全6話と短いしNHKだからまとめて再放送が期待できるので、見逃した方も機会があれば是非。
まぁオチが心配なところはあるんですがね。
つうか総合で9/20(月)午前1:25~ 第1~3回集中再放送をやったらしいんですが※福岡県地方では第3回のみ放送となります、らしくなんなの福岡なんなの。

ま軌道(宇宙)エレベーター建造には技術的な壁というより国際関係的な壁の方が大きく立ちふさがっているようなんで、ままならないのが現状らしいんですが。好きだの嫌いだのを国家間でやってるようでは先が思いやられる感じですが、そんな感情が増幅されてるからもめるのか。人類にはわかりやすい共通天敵が必要なのか、ネウロイとかELSとか(チガウカ)。

最近はエレベーターより先に、静止軌道衛星同士を地球周回に沿ってチューブ状につなげた軌道リングを建設したほうが簡単な気がしてきたよ。
部分軌道リングシステムだったら赤道以外のところ例えば北九州にでも建設可能だし。
身近になる宇宙が待ち遠しいかぎりですね。

軌道エレベーターが出るアニメの劇場版が公開中のようだが・・・

2010年9月21日火曜日

ハッ、これは人形!(誰の台詞だっけ)

9/12にNHK BShiで再放送があったHV特集「1/24秒に命を吹き込む~人形アニメーション作家・川本喜八郎の世界」を録画してあったんで見た。



紳々と竜々って最後どうなったんだっけ北方。



日本が誇る偉大な人形アニメーション作家、川本喜八郎さんがお亡くなりになったニュースはまだ耳に新しい。
これを機に「人形劇 三国志」再放送しないかな。自分の劉備(蜀)贔屓はこの作品の影響だな。
番組は遺作ともなった、折口信夫の『死者の書』(2005年:第39回シッチェス・カタロニア国際映画祭アニメーション部門特別賞受賞)を人形アニメーションで製作する過程を通して、その驚嘆すべき神業を語ってゆく。
人形作成から絵コンテ、アニメーションまで、当時80歳とはとても思えない精力的な作業っぷりは恐れ入るほかはない。
超恐ろしい人形映画『道成寺』も引き合いに出されたけど、この作品も凄かった。ギャラリーSOAPでほとんど全部見せてもらったな。
喜八郎さんいうところ、人形は人間の縮図ではけっしてなく、人形には人形の世界がある、と語っていたことが非常に印象的。
執心から解脱にいたるようなストーリーは、もっとも人形が得意とするシチュエーションなんだそうである。
そうそう神業といったが喜八郎さんによると、よくあなたにとって人形とはなんですか子供のようなものですかと尋ねられることがあるが、人形とはお仕えする神のようなものなのだそうだ。
作っているのも自分ではないだれかから作らされているようなふうに感じることが本当にあるのだそうである。
自分なんかがこういうのはほんとおこがましいのではあるが、このような感覚の末端をかすめた覚えがあるんで実に共感する。

人間が作ろうとしているロボットや人工知能などは人をより深く知るためのツールであると同時に、このような意味合いをも含んでいるのかもしれませんね。
川本喜八郎作の初音ミクとか見てみたかった気がする(神をも恐れぬ所業)。

2010年9月20日月曜日

目に見える死

アニメ「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」が終わりましたね。



北方 of the Dead



日本では最近になって非実在者が次々と発見されているようですが、生ける屍ことゾンビとは生態が異なります。死んでるのに生態もあったもんじゃないですが。
日本では現在ほぼ100%の火葬率らしいので墓場から蘇るってことは少ないだろうけど、近代ゾンビはほぼウィルス感染系であるので感染速度はパンデミック、手がつけられない感じだ。
んで原作:佐藤大輔は架空戦記作家としての側面がよく知られるが元々ウォー・シミュレーションゲームのデザイナーであったらしく、その考証性は高い評価を受けているらしい。
まデータマニアな面もあってか遅筆でも知られているようで、HOTDも途中で止まってるらしい、作画のせいかもしれんが。
漫画作画は佐藤ショウジ、九州出身在住で六道神士のアシ経験があり師と仰いでるとか。代アニ福岡校卒業らしいんだが才能あったんだなぁ。
アニメでは佐藤大輔原作らしい右翼や左翼についての言及はほとんど改変抹消されているらしいよ。

ゾンビモノの元祖、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドの時点で言及されてると思ったけど、ゾンビってある意味聖別された殺してもいい人間なんだなぁ。
FPSオンラインゲームでもあると面白そうだがバランス的に無理か。だらだら長くやるんじゃなくてイベント的に期間限定だと楽しそうなんだが。
キリスト教圏のフラストレーションのはけ口的な意味合いもちらほら感ぜられて、仏教的には存在しにくいクリーチャーかもね。
都合のいい労働力という意味合いから一転、彼らに貪り食われるってどんな気持ち?ねぇどんな気持ち?
明日は我が身ジャパン。

2010年9月19日日曜日

白鳥の歌

北九州市立美術館分館にて「没後25年 鴨居玲 終わらない旅」という回顧展が開催中なんで見てきましたよ。



上舞です。



鴨居玲は戦後の神戸洋画壇を代表する画家として知られているようです。
自画像の画家とも称されるように、描かれる全ての人物あるいは物体は自己の内在を通して描き出されているイメージであり、老人、廃兵、酔っ払い、道化師、教会などのモチーフ全てが彼の分身であり画家の内宇宙が表現されている絵画であるようです。
私のイメージ上の“洋画家”らしいとでも申しましょうか。
画風や題材も陰鬱で暗いものばかりなイメージだったんで間違っても家に飾っときたくない感じの絵なのは間違いなかったんですが、実際目にすると光が幾重にも重なり合った重厚な暗闇であり、滲み出すような光の光芒を感ずることができる、非常に魅力的な絵の数々でした。
その作風とは裏腹に明るくユーモアあふれる人柄であったらしいですが、作品に表れているのかもしれません。
まぁ「静止した刻」に描かれているダイスはよく見ると数字の配置がありえない感じだしな。
文学から題材を取ることもあったようで、芥川龍之介より「蜘蛛の糸」の地獄絵図など、私がもう少し若ければ陰惨で迫力がありただただ気が滅入る嫌な絵だなという印象をもったことだろうなぁ。

だが今展の白眉はなんといっても「1982年 私」。
縦181.6×横259.0という大作なのもさることながら、総勢16名と1匹(犬)が描かれた群像画の中央に配された淡い光を放つ真っ白なカンヴァスが、ひときわ見るものの眼を奪わずにはおられないだろう。
一度でも“創作”ということに手を出したものならば、その大小多少にかかわらず感じざるをえない感情のうねりをそこに見出し、嫌でも目を逸らすことができないはずだ。

非常にメタフィクショナルな絵画であり、鴨居芸術の集大成に相応しい、非常に印象に残る作品である。
この作品を見るためだけにでも行く価値はあるというものです。

社会や人間の闇、奥底に潜む孤独や不安やを重苦しいタッチで描き出されている絵画たち、しかしそこにあるのは弱さの否定はなく、今もまだ終わらない旅を続けている人間をあるいは自分自身の本質を真摯にみつめ、問いかけ続けているひとりの画家の姿が自ずと浮かび上がってくるのです。

絵というひとつの窓宇宙をとおしてでも、我々は実に大きな旅ができるものなのである。