2010年8月18日水曜日

船倉の船窓から千層もの蝉噪は戦争

暑いですね、残暑お見舞い申し上げます。



蛙鳴北方。



ゲゲゲは戦争の話に突入しましたね。
考えてみるに戦争は善意から始まり、生物的に最も弱きものがその指揮に当たることが多いように思う。
戦争は一人では成り立たず必ず集団戦闘になる。
虐殺や殺戮は戦争状態でなくとも発生するし、人間特有のものではなく生物界ではそんなに珍しい現象ではない。
では戦争とは何か。
目には見えないが確かな力を感じる存在に対する、あるいは同士の闘争であろう。
本来、知性と呼ばれるものが無ければ概念存在同士の物理的衝突である戦争状態はありえない。
戦争はたんな単なる殺し合いでもなければ一方的な殺戮ですらない。
そういうものも当然含まれはするが、本質ではない。
暴力、力の誇示というのは本来何かを守らなくてはならないものが行なう行為であって、 デストルドー自体は見かけの派手さとは異なり脅威の度合いは低い。
純粋な悪意などは非常に弱弱しいものなのである。
だから、母性的に何かを守ろうと生物的欲求に従う時の暴力行為には際限が無い。
ではこの一人一人が不幸を回避しようと願う結果生じる、国家、民族、組織などが持つ目には見えない集団的な力、戦争や闘争を可能とせしめる力の存在とはなんであろうか。
それは、環境とか自然に抗い存在を継続させるために生み出されつつある生命の力であるのだ。
集団暴力や自己または環境改変能力は、“自然環境”に対して使用されるべき能力なのである。
生命体はどのような形であれ、その外的自然環境に依存しており、全くの無力である。
圧倒的なまでのエネルギーを有する超大暴力の前には全ての生命、万人は等しい。
しかしそれには意識や意図はない。
そんな捕らえようもなく途方もない自然環境に対し、最初に大きな能動的変化を促したのが好気性生物であり、自然の力の一つで猛毒でもあった酸素というエネルギーを取り入れたのだ。
まさに悪魔の力を手に入れたといっても過言ではなかったろうか。
科学はその大いなる暴力に対抗するための武器である。
我々は地球生命体のひとつとして早いトコ宇宙に進出し、外部からも自然環境と闘わなくてはならないのだ。
ちょっとした太陽の気まぐれで灼熱にも氷結にもなる脆弱なこの環境からいつでも離れ、新天地へも進出できるように。



お互い健康には気をつけて、この猛暑を乗り切りたいものです。