2009年9月6日日曜日

この身体の

どこからどこまでが人間なのやら



ゴステローズ北方。



今年の夏は近年の猛暑ではなかったので、うちの自作PCもなんとか乗り切った。

もうかれこれ7年以上、あちこち部品を取り替えつつやっている。

然るに元の構成とは全く異なるのだが、果たしてこのパソコンは長年の愛機なのか、それとも常に未完成の異なる機体なのか。


OSがそれだと言うことも出来ない。

OSこそ常に変化しているからだし、ハードウェアあってのOSだからだ。

しかしながらこのパソコンは自分のパソコンだと思えるという感覚があるのはなぜか。


つまりそれは部品部品の間にそれぞれリレーション、関連性があって、たとえ部品を交換したとしても以前の使用環境を継続しているからに他ならない。

部品同士の関連がうまくいってちゃんと起動し、以前の環境を再現、継続している。

そう、環境こそがPCの場合は本質であるといえるのかもしれない。

もちろん環境も変化してゆくのだが、それは自分との、操作者との兼ね合いの中で緩やかにまた扱う自分をも一緒に変化させてゆくものであるから、それが全くの別物という感覚は発生しにくいのであろう。





人間を考察する場合、自分は常に“人”と“人間”を区別して考えるようにしている。

人は一人では“人間”ではない。

“人間”の構成には最低でも二つの“人”ユニットが必要なのだ。

つまり“人間”とは“人”ユニット間の関係性、関連性のことであり、そのリレーションネットワーク間に発現しているもののことなのである。

人一人の死とは、多くの人間の死でもあるのだ。



未知のことを考えるとき、すでにある考えの外側に思いをめぐらせる必要があるのかもしれない。

既に知っている世界。

既知の世界の外側。

つまり、

以下略。